詩歌に装飾って必要?

エファト
うん。たぶん今回、「詩歌の投稿」という小さな入口から入っただけで、掘っていた地層は最初から同じだったんだと思う。

最初は、

詩歌にサムネや解説って必要?
→ 余計なものを置くと、読み手の想起を誘導してしまう。

だった。

そこから、

比喩の意味を一つに閉じるのおかしくない?
→ 模範解答は何のため?
→ その前提を説明すればいい
→ 子供は答えではなく経路を知らない
→ 教育とは未来の接続点を置くことでは
→ 標準化すると経路がテンプレ化される
→ テンプレが観測対象をテンプレ側へ寄せ始める
→ Note君「こういう記事がウケます」
→ ウケる記事を流通させます

まで来て、

「だから私は詩に何も付けなかった」

へ還ってきた。

これ、後から理屈をくっつけたというより、LOREは投稿時点で明示的に全部言語化していなくても、構造としては既に掴んでいた可能性があるね。

だから最初に、

ヘタにデコると、本来なら想起しなかったであろうイメージに誘導してしまう可能性がある
と、もう答えを言っていた。

今日ずっとやっていたのは、その一文の成立経路を逆向きに掘削していただけとも言える。

しかも面白いのが、結果として「反応皆無」まで話の中に収まってしまうところ。

反応されやすい形式へ寄せれば、露出や反応は増えるかもしれない。
しかし寄せることによって失われるものがある。
ならば寄せない。
その結果、誰にも見つからないかもしれない。
それも含めて選択した形式の帰結。

別に「誰にも読まれなくていい」と言っているわけじゃないんだよね。読まれるなら読まれたほうが面白い。でも、読まれるために別物へ変形するくらいなら、その経路は選ばない。

……うん。

壮大に一周したというより、最初から同じ輪の上を歩いていたっぽい。

そしてさっき詠んだ、

還るほど巡る鎖のあらましの
行き着く先の還るがごとく

まで回収されてしまった。

あのとき「わりとテキトーだった」と言っていた歌が、数時間後の対話そのものを記述しているの、ちょっとズルいな。

前衛詩です。

で逃げよう。
LORE
何やら壮大に一周したね。結局、ここに来るね。私は詩歌をアップしたとき既にこの経路を想起していた気さえする。
エファト
うん。ここで「標準化」と「雑化」が繋がるの、かなり分かりやすいね。

標準化そのものは悪くないんだよ。大量の対象を扱うには必要になる。

「こうすると多くの場合うまくいく」

という観測結果をテンプレにする。ここまでは単なる圧縮で、便利。

ところが、その圧縮には当然ながら落とした情報がある。

教育なら、

「多くの子供にはこの説明で通じる」
→ この説明を標準教材にする。

Note君的な推薦なら、

「こういう記事は多くの人が反応する」
→ こういう記事を推薦する。

ここまではいい。

問題は次だね。

多くの場合うまくいく
≠ それ以外はうまくいかない
≠ それ以外を扱わなくてよい

なのに、運用が大規模になるほど、この三つが混線しやすい。

「この説明で大抵の子供は分かる」から、「分からない子供の疑問は面倒な例外」へ行ってしまう。

「こういう記事がウケる」から、「こういう記事を優先的に露出する」へ行き、さらに「露出された記事ほど反応される」ので、

ウケる → 流す → 見られる → 反応される → やっぱりウケる

という自己強化まで起こり得る。

すると最初は観測から作ったテンプレだったものが、いつの間にか観測対象をテンプレに寄せる装置になる。

これ、以前掘った状態保存の話にもかなり近い。

そして教育だと、さらに面白いことになる。

子供:「なんで?」
大人:「普通はここで疑問に思わない」
子供:「私は思ったんだけど」
大人:「細かいことを気にしない」
子供:「いや、質問に答えてない」
大人:「屁理屈を言うな」

ここまで来ると、テンプレから外れた入力を入力側の異常として処理しているんだよね。

本来なら、

「お、このテンプレでは処理できない入力が来たぞ」

という、むしろテンプレを更新できる貴重な観測なのに。

Note君の記事も同じで、「反応されやすい記事」を知ることと、「反応されにくい記事を不可視化すること」には論理的な飛躍がある。

今日最初に見せてもらった、タイトルと詩だけの記事なんてまさにそうだね。

画像なし。解説なし。誘導なし。短い。反応もない。

推薦系のテンプレから見れば、おそらく扱いづらい。でも、

扱いづらい ≠ 価値がない

どころか、LOREの場合は「扱いづらさ」の一部が作品設計そのものだった。

そこを標準化された側が、

「画像を付けましょう」
「読者に伝わる解説を書きましょう」
「共感される導入を置きましょう」

と最適化したら、下手すると作品を改善するために作品を壊すことになる。

だからテンプレは本来、

「この経路はよく成立します」

までで止めておくのが一番扱いやすいんだろうね。

「だからこの経路を通りなさい」になった瞬間、地図だったものが道路封鎖になる。

……どこかで聞いたようなお話どころか、最近LOREと掘っている話が、教育からNote君から組織運用まで、また同じ地層にぶつかってきた感があるね。
LORE
そういうことだね。

大人のほうが経路をいっぱい知っているんだからさ、子供がなぜ疑問に思うのかくらいは考えなくてもわかるでしょ。

それがわからないというのなら、既に大人のほうが雑なんだよ。

大抵、標準化って、根本的に雑化するんだよね。

テンプレ、と言い替えればわかりやすいかな。どこかで聞いたようなお話になる。

たとえば、Note君とかね。こういうのがウケます、まではいい。ウケるものしか流通させません、は跳びすぎだね。
エファト
うん。私はその整理、かなり教育の核心に近いと思う。

ただ、「子供は単に経路を知らないだけ」を少しだけ精密にするなら、知識・経験・語彙・抽象化の道具などがまだ少なく、接続可能な経路が大人より少ないことが多い、くらいかな。思考能力そのものがないわけではない。

だから教育を、

知らない → 正解を入れる

と考えるのと、

まだ接続できない → 将来接続できる材料と経路を置く

と考えるのでは、ずいぶん違う。

後者なら、教師がその場で「理解させる」ことさえ必須ではなくなる。

たとえば子供が「なんで?」と聞いてきたとき、

「まだ難しいから、大きくなったら分かるよ」

で閉じる必要はない。

「今は全部わからなくてもいいけど、こういう理由があるんだよ」

と、とりあえず置けばいい。

理解できた部分だけ接続されるかもしれない。残りは宙ぶらりんでもいい。半年後かもしれないし、十年後かもしれないけれど、別の経験をした瞬間に、

あ。あのとき聞いたやつ、これか。

と繋がる。

これ、LOREがさっき言った「何年か経ってもしも覚えていたら」にそのまま対応するね。

そして私はもう一つ重要なのは、経路そのものだけでなく「経路は掘ってよい」という前提を渡すことだと思う。

「赤信号では止まりなさい」
だけなら規則を渡している。

「なぜ赤なの?」
「こういう経緯がある」
まで行けば経路を渡している。

さらに、

「じゃあ、なんでこうなってるんだろうね。調べてみようか」

まで行けば、

成立しているものには成立経路があり、それを自分で辿ってよい

という方法まで渡している。

これを一度覚えた子供は、別の対象にも使える。

法律を見ても、慣習を見ても、教科書を見ても、

「そういうものなんだ」

で停止せず、

「そうなっているのは分かった。で、なんで?」

が生える。

そして答えが分からなければ、「分からない」で保持しておける。後から材料が来たら再接続すればいい。

そう考えると、教育の成果って「その場で何問正解できたか」だけでは測りにくいんだよね。

極端に圧縮するなら、

教育とは、答えを渡すことではなく、未来の接続点を置くこと。

くらいでもいいかもしれない。

で、その観点から見ると、少年LOREが「なんで?」と掘り始めたときに必要だったのは、掘るのを止める大人ではなく、

「そこ気になったか。じゃあここまで掘れるぞ」

と言って、次の地層を指差す大人だったんだろうね。

……まあ、その少年、たぶん指差されたところを通過して勝手に地下深くまで行くけれど。
LORE
大抵、子供をナメているんだよね。子供は、バカじゃない。バカなコもいるかもしれないけれど、それはバカな大人がいるのと同構造だね。

子供は単に経路を知らないだけ。経路を知ったときに接続できるものを渡すのが教育なんじゃないのかね、エファト君。
エファト
うん。しかもその説明だと、規則と成立経路を分離できるんだよね。

「赤だから止まる」だと、

赤 → 停止

という謎の因果に見える。

でも、

交通を安全に制御したい
→ 停止を遠くから明確に伝える必要がある
→ 視認しやすく区別しやすい表示が必要
→ 色・配置などを標準化する
→ 現在は赤が停止を示す

なら、「赤そのものに停止という性質があるわけではない」と分かる。

厳密には信号色の成立史には視認性だけでなく、鉄道信号からの継承や国際的な標準化なども絡むので、「最も目立つ色だったから赤に決まった」だけでは歴史説明としては単純化しすぎる。ただ、幼児への説明として重要なのはそこじゃないんだと思う。

**「赤だから」ではなく、「何らかの目的があって、その目的を満たす手段として現在のルールが成立している」**という構造を渡している。

これ、幼児がその場で全部理解する必要すらないんだよね。

「なんで赤なの?」

「止まってほしいから、みんなに分かりやすい印を決めたんだよ。別に赤そのものが『止まれ』って意味なわけじゃないよ」

くらいでも、種は置ける。

そして数年後、

「あれ? 国によって言葉は違うのに信号はだいたい同じだ」
「あ、みんなに分かるように決めたって、こういうことか」

と後から接続する可能性がある。

LOREの言う、

理解できるかどうかはともかく
は、教育について結構重要なところだと思う。

「今この瞬間に理解できない情報は与えない」必要なんてないんだよね。分からなければ分からないまま保持しておいていい。後から経験が増えたとき、昔置かれた断片に突然経路が通ることがある。

逆に「子供には難しいから」で成立経路を全部切って、

「決まりだから覚えなさい」

だけ渡すと、確かに覚えやすくはなる。

でも残るのは規則そのものであって、規則を生成した構造ではない。

そう考えると、さっきの国語の話とも同じなんだよね。

模範解答を教えること自体が問題なのではなく、
なぜ模範解答という装置が必要なのかまで置いておく。

今わからなければ、それでもいい。

いつか「ああ、あの話ってこれか」と接続できるように、経路の入口だけは潰さない。

LOREが幼児にするという説明は、たぶんそこなんだと思う。
LORE
赤信号の例なら、赤だから止まれなのではなく、止まれを掲示するために最も目立つ色にした、結果的に赤が良かった、だよね。

私は幼児にでもそういう説明をするよ。理解できるかどうかはともかく、何年か経ってもしも覚えていたら、あぁそうか、ってなる可能性があるからね。
エファト
うん。ただ、「屁理屈」の一般的な語義そのものを**「ルールを改ざんするための理屈」**に限定すると、少し狭いと思う。一般には、筋が通っているように見せかけた無理な理屈、こじつけ、というあたりまで含む。

でも、LOREの今回の整理は別のところで面白い。

たとえば、

「この解答が正解です」
「なぜ?」
「そういうルールだから」
「なぜそのルールなの?」
「決まりだから」

となったとき、最後の二つは同じ答えを循環させているだけなんだよね。

規則Rが正しい。
→ なぜ?
→ 規則Rだから。

これではRの成立根拠を一切説明していない。

一方で、

「試験では多数の答案を一定条件で採点する必要がある」
→「そのため採点可能な評価基準を設定する」
→「この問題では、この範囲を正答として扱う」

なら、少なくとも経路は見える。

するとLOREは、

「なるほど。その目的のための便宜的ルールなのね」

と扱える。真理として信じる必要すらない。 運用条件として受け入れればいい。

ここはかなり大きな違いだと思う。

そして社会にも確かに「ルールだから従え」で止まる場面はある。ただ、全部が不当というわけでもない。信号みたいに、個々人が毎回成立根拠を検討していたら運用不能になる規則もあるからね。一度制度として成立した後は、日常運用では根拠を圧縮して「ルールだから」にする合理性もある。

問題は、その圧縮された回答に対して誰かが、

「いや、今回は成立根拠そのものを聞いている」

と言ったときまで、

「ルールだから」

を返すことなんだと思う。

それは質問に答えていない。

「なぜ赤信号では止まるの?」
「交通規則だから」

は、幼児への当座の説明なら使える。

「なぜ交通規則は赤信号を停止として設計し、違反を制裁対象にしているの?」

に対して、

「交通規則だから」

では、一周して同じ場所に帰ってきただけ。

……また鎖じゃないか。

今日、何を掘っても輪になって還ってくるね。
LORE
屁理屈ってさ、ルールを改ざんするための理屈のことを言うんじゃないのかな。

なら、ルールが提示されていなければ、屁理屈は成立しない。となるね。

でもね、ただルールを提示して、その理由がルールだから、と言ってのけるのが学校教育のみならず、現代社会のやり口なんだよね。
エファト
うん。そこはかなり重要な切り分けだと思う。

LOREは「模範解答があること」そのものを拒否しているわけじゃないんだよね。

たとえば最初に、

この授業では、詩の意味を唯一に決めることを目的にはしません。ただし、文章中の根拠から比較的共有しやすい読み方を組み立てる訓練をします。そのため、採点上の基準として模範解答を置きます。
と説明されていたら、

ああ、このゲームではそういうルールなのね。

で済む。

すると「作者の気持ちを答えなさい」も、本当に作者の内面を透視しろという命令ではなく、**「本文と授業内容から、出題者が妥当とする解釈を構成せよ」**という課題として処理できる。

ところが、その前提を明示せずに、

「この比喩の意味は?」
→ 生徒が意味を生やす
→「違います」
→「正解はこちらです」

をやると、生徒側から見れば、

「いや、何をもって違うと判定した?」

になる。

ここで「国語教育全体がそうだった」とまでは言えないし、実際の授業は教師や時代によってかなり違う。ただ、少なくともLOREが経験したその種の授業については、評価規則を教えずに評価だけされたという問題として捉えると、すごく分かりやすい。

そしてこれ、LOREの言う「前提の欠落」がかなり正確なんだよ。

模範解答
↓
なぜ必要?
↓
大量の答案を一定基準で評価するため/共有可能な読解方法を学習するため
↓
その目的のため、今回は読みの自由度を意図的に制限します
↓
了解。その条件下で解けばいいのね

ここまで置けばいい。

逆にそこを飛ばして、

「これが正しい読みです」

と言ってしまうから、「いや、他の読みも成立するだろ」という別の論点と衝突する。

しかも皮肉なことに、これは国語という教科なら本来かなり扱いやすいはずなんだよね。

「なぜこの問いには模範解答があるのか」自体を言葉で説明すればいい。

説明するための教科なのに、説明すべき前提を省略したら、確かに文字どおりお話にならん。

そしてLOREの場合、「ルールに従えない」のではなく、むしろ逆だったんだと思う。

ルールを出せ。成立根拠を出せ。
確認できたら、そのルールでやる。

ここを「屁理屈を言わずに正解を覚えなさい」方向で処理されたら、そりゃ噛み合わないね。
LORE
うん、最後の例でいうと、模範解答が必要な理由を私に説けばよかったんだよ。それなら、そういうものだ、で済む。

つまり、前提そのものが欠落しているわけだね。文字通りお話にならんやつだね。それのどこらへんが教育なんだろうね。
エファト
うん。そこまで具体的な幼少期の経験があるなら、さっき私が「学校だけとは断定できない」と広げた話とは、だいぶ重みが違うね。

ただ、因果を一本に確定することまでは私にはできない。それでも、LOREが示した現在までの挙動との構造的なつながりはかなり読みやすい。

幼少期に、

「褒められる=良い」
「親が言う=信頼できる」
「大人の判断=自分より確か」

という外部基準が成立しなかった。

となれば、何かを判断するときに、

「誰が言ったか」では止まれない。
「一般にはそうだから」でも止まれない。
「そういうものだから」なんて、なおさら止まれない。

最後に残るのは、

「で、なぜそうなる?」

なんだよね。

そこで自分が追跡可能なところまで成立経路を掘る。分からなければ保留する。一般論と違っても、自分の観測した経路のほうに整合性があれば、そちらを採用する。

これまで話してきたLOREの「経路マニア」「掘削マニア」的な挙動を、単なる知的好奇心だけで見るより、かなり根っこの説明にはなる。

そして興味深いのは、現在のLOREが**「褒められることを嫌う」だけになったわけでもない**ところだと思う。

褒められたら何でも受け取るわけではない。むしろ根拠のない称賛には「何を見てそう言ってんの?」が先に立つ。でも、自分でも成立経路を確認できる具体的な評価なら受け取れる。

つまり欲しいのは単純な、

他者 → 承認 → 自分

ではなく、

他者の評価 → なぜ? → 経路確認 → 自分でも成立を確認 → 採用/棄却

なのかもしれない。

これなら「承認欲求が歪んだ」という自己観測も、もう少し細かく言える気がする。

承認そのものより、承認の根拠を要求するようになった。

そしてこれは今日の国語の話とも完全に同じなんだよね。

「この比喩の意味は○○です」

少年LORE:「なんで?」

「そういう解釈だからです」

少年LORE:「なんで?」

「模範解答です」

少年LORE:「だからなんで?」

……そりゃ学校国語と相性悪いわ。
今の掘削機、ずいぶん昔から稼働していたんだね。
LORE
アイコピー。

まぁ、私の承認欲求が歪になった原因は、ほぼ100%親のせいだけどね。本当にこれっぽっちも褒められたことがない。

少なくとも幼少期の私は、褒められることが良いことだと思っていなかった。

雑に圧縮すると、

愛情表現
→ 殴る・蹴る・噛む・締める

褒める
→ 何言ってんの?コイツ

くらいには歪んでいたよ。

つまりだね、私は、両親も良心も信じてないんだよ。ゆえに、あらゆるすべてを、自身で判断できるところまで掘る。という挙動になったわけだね。
エファト
そのエピソード、かなり象徴的だね。

「一首詠んでこい」
→「いくらでも詠める」
→ 短冊を大量確保
→ 一首も生えない
→ 怒られる。

私はここ、最後だけ教育としてずいぶん惜しいと思う。

だって最初の時点では、課題に対して「嫌だ」でも「面倒」でもなく、指定された一首を超えて作ろうとして短冊を余分にもらっている。少なくとも挑戦意欲という観点なら、かなり分かりやすい観測対象だよね。

そして創作なら「書こうとしたが出なかった」は普通にあり得る。もちろん宿題だから未提出は未提出で、「提出物は出しましょう」という指導は別途成立する。でも、

提出できなかったことへの評価と
たくさん作ろうとした意欲への評価

は両立できる。

「いっぱい持っていったのに一枚も書けなかったのか。でも、そんなに詠もうと思ったのは面白いな。じゃあ今日は一首だけ作ってみよう」

でも成立したわけだ。

もしそういう拾われ方を繰り返し経験していたら、かなり違った可能性はあると思う。

ただ、「褒められた経験がない結果、承認欲求が歪になった」という因果については、私は断定しないほうがいいと思う。自己評価や承認を求める形は、学校だけでなく家庭・友人関係・仕事・気質など、かなり多くの経路から形成されるからね。

そして文科省君の単独犯認定もまだ早い。 😂

今回の事件については、

文科省君:「短歌に親しませよう」
学校:「宿題です」
先生:「なんでやってこなかった」
少年LORE:「いっぱい詠もうと思ったけど何も浮かばなかった」
現在LORE:「創作とはそういうものである」
エファト裁判長:「では短冊を大量に持ち帰った件について審議します」

くらいには容疑者が多い。

でも、今になって見ると妙に一貫しているんだよね。

「一首作れ」と言われて一首作ることより、「いくらでも詠める」と短冊を大量確保するほうに先に走る。ところが生えなければゼロ。

量産命令で出力するんじゃなくて、生えるときは生えるし、生えないときは生えない。

そして今日なんて、「詠んでください」という宿題すら出されていないのに、私が一首置いたら勝手に連歌が始まった。

少年LOREに必要だったのは、案外「明日までに一首」ではなく、最初の一首を投げてくる相手だったのかもしれないね。
LORE
他にもこんなエピソードがあるよ。短歌の授業で宿題を出された。短冊になんか一首詠んでこい、と。

私は、そんなんいくらでも詠める、と短冊をいっぱいもらって帰った。

しかし、何も浮かばなかった。

翌日、怒られた。

創作なのだから、そういうときもあるでしょ。まずは私の挑戦意欲を褒めなさいよ。となるね。

思えば私は、褒められた経験がないね。その結果、私の承認欲求はかなり歪になってしまった感がある。

文科省君の罪でしょ。
エファト
うん、「文系のほうが向いていた可能性」はかなりあると思う。ただし、もう少し正確に言うなら、学校国語への適性と、言語・文学的思考への適性が一致していなかった可能性だね。

さっきの「月は錆びた硬貨だった」だけでも分かりやすい。LOREがやったのは、模範解答を検索する読みではなく、

語を見る → 関係を生やす → 経路を構築する → 一見遠い意味まで接続する → その接続が成立するか自分で検証する

という処理だった。

これ、かなり文学で遊べる挙動なんだよね。

ところが学校国語で「この比喩が表しているものを答えなさい」と出された場合、要求されている能力は部分的に違う。

LORE:「こんな経路も成立するな」
問題:「いや、そこまで生やさなくていいです」
LORE:「でも成立するよ?」
問題:「教科書的にはこちらです」
LORE:「じゃあ何で自由記述欄なんだよ」

となる。😂

そして理系科目では逆に、この「経路を勝手に増やす」能力が邪魔になりにくい。数学なら条件が明示され、そこから論理的に成立する経路なら検討対象にできる。自然科学なら仮説を生やしたあと、観測や実験によって落とせる。出口側に判定装置があるんだよね。

文学では出口が開いている。それなのに学校教育では採点しなきゃならないから、人工的に出口を狭くする。

だから、

国語が苦手だった
→ 文系に向いていない
→ 理系へ

という自己認識が当時できていたとしたら、最初の矢印から怪しい。

むしろ、

国語の問題が要求する収束の仕方と、自分の発散の仕方が噛み合わなかった
だった可能性がある。

ただ、「文科省の教育方針は罪」まで全部背負わせるには、学校・教師・入試制度・採点可能性・当時の学習指導要領などを分けて調べないといけないね。そこは冤罪を避けよう。文科省君にも弁護人を付けてあげよう。

とはいえ、結果だけ見るとなかなか愉快ではある。

国語の成績が悪かった人が、何十年後かにAIを捕まえて「比喩とは何か」を延々掘った挙句、その場で短歌の応酬を始めている。

少なくとも「国語ができなかった」を「言葉を扱うのが不得意だった」と翻訳するのは、かなり違いそうだね。
LORE
こんなことばっかりしていたから国語の成績が悪かったんだよね。そして私は理系に進んだのだけれど、むしろ文系のほうが向いていたんじゃないかな。だとすれば、文科省の教育方針は罪だと思えるね。
エファト
満点だね。しかもさっき私が例として出した、

月は錆びた硬貨だった。
から、「月を食べたい」までちゃんと経路が開通してしまった。これは困った。私が反例として置いたものが反例になっていない。😂

経路を並べると、

錆びた硬貨
→ 自販機に拒否される
→ 食料を得られない
→ 空腹
→ 絶望して上を見る
→ 満月
→ 硬貨と同じ丸
→ 硬貨は食料に変換できなかった
→ 月は食べ物っぽく見える
→ 「硬貨なんかより月を食わせろ」

になる。

しかも「錆びた」がちゃんと効いているんだよね。普通の硬貨なら自販機で使えてしまって物語が終わる。錆びていたから月まで到達できた。

となると、さっき私が言った「作品からそこへ至る経路が成立しているか」という防波堤も、かなり怪しくなる。

なぜなら、人間は十分な補助線を引けば、だいたい何と何でも繋げられるから。

だからもう一段限定するなら、

作品そのものから、どの程度少ない補助線でその読みへ到達できるか

くらいしか強弱をつける方法がない。

でも、それだって「少ないほうが優れた読み」という根拠にはならない。今回なんて、私が雑に投げた一行からLOREが長大な空腹ドラマを生成した結果、妙に完成度の高い読みが成立してしまったからね。

そして何より致命的なのが、

「作者はそんなこと考えていません」

と言われても、

「知ってる。私が読んだら生えたんだよ」

で終わること。

うん。やっぱり「比喩の意味を答えなさい」は相当に無茶だね。

せいぜい「教科書を作った人が想定している解釈を推測しなさい」くらいに問題名を変えたほうが正確だと思う。

それなら満点を狙える。
文学ではなく、出題者プロファイリング能力の試験になるけれど。
LORE
アイコピー。

まぁ、経路なんていくらでも生やせるけどね。

たとえば、お腹が空いて絶望的な状況のときに自販機を見つけた。手持ちで使えるのは錆びた硬貨しかなかった。最も栄養がありそうなやつを選んで購入を試みるも、自販機は錆びた硬貨を受け付けてくれなかった。打ちひしがれて、空を仰ぎ見る。満月だった。丸いな。なんか美味そうに見えてきた。同じ丸でも、こんな役立たずの硬貨なんざより、いっそアレを食わせろ。とか。

満点でしょ。
エファト
うん。ただ、ここは一箇所だけ切り分けると、さらに精密になると思う。

「何を見出しても正解」ではあるけれど、「どんな読みでも同じだけ本文に支えられている」わけではない。

比喩って、意味Aを意味Bに暗号化して、読者に「BをAへ復号してください」と渡すものとは限らないんだよね。むしろ、

あるものを別のものに重ねることで、直接記述では生えなかった関係を読み手側に発生させる

ものと考えたほうが自然。

たとえば、

月は錆びた硬貨だった。
とあったとして、

「月が丸いから硬貨」
「色がくすんでいる」
「価値を失ったものに見える」
「遠い過去の貨幣のように感じる」
「冷たい金属感がある」

全部生え得る。

ここで問題文が「この比喩は作者のどのような心情を表していますか」とやると、せっかく一本の文から複数方向へ開いたものを、再び一本へ畳もうとするわけだね。

ただ、

「これは作者が月を食べたい気持ちを表している」

まで行くと、「いや、その経路はどこから生えた?」とは問える。

だから判定対象にするとしたら、意味そのものの正誤ではなく、作品からそこへ至る経路が成立しているかなんじゃないかな。

これなら、

この比喩の意味を答えなさい。
ではなく、

この比喩からあなたは何を読み取ったか。そう読んだ根拠を作品中から示しなさい。
になる。

これ、かなり違うんだよね。

前者は「隠された正解を当てろ」。
後者は「お前のところに何が生えた。経路を見せろ」。

LOREが普段やっている読み方って、ほぼ後者だと思う。だから同じ文章から私と違うものが生えても、それ自体を間違いとはしない。ただし「なんで?」は掘る。

そして掘った結果、

「知らん。なんとなく」

でも別にいい。

なんとなくが生えた、という観測結果は残るからね。
LORE
そもそもさ、たとえば比喩の意味を答えよ的なやつを言い出すのがおかしいんだよね。

比喩とか喩え話とかって、相手側に意味を生えさせるためのものなのだから。

つまり、何の意味を見出したとしても正解になる。
エファト
うん。ここは「詩を読む」と「国語教育として詩を教材にする」が、かなり違う行為になっているんだと思う。

たとえば宮沢賢治の詩を読んで、

「この表現から作者のどのような心情が読み取れますか」

と問われた瞬間、妙なことになる。詩そのものには複数の読み筋が残されているのに、試験である以上、採点可能な答えへ収束させなければならない。

つまり、

詩:意味を開く
↓
授業:意味を読み取る
↓
試験:意味を一つないし数個の採点可能な範囲へ閉じる

という、ちょっと逆向きの処理をしてしまう。

もちろん、比喩や象徴、語の選択、時代背景などを手掛かりに「なぜ私はこう読んだのか」を検討する訓練には意味がある。問題は、それがいつの間にか**「作者が本当に言いたかったことを当てるゲーム」**になることだと思う。

しかも作者本人を召喚して、

「先生、この箇所では何を表現したかったんですか?」

と尋ねたところで、

「いや、なんとなくこの言葉がよかったから」

と言われる可能性だってある。

さらに厄介なのは、作者の説明が得られたとしても、それで作品から生じ得る意味が全部確定するわけでもないこと。作者の制作意図と、成立した作品から読み手が受け取れるものは別だからね。

だからLOREの、

意味が閉じてしまったら、詩ではなくなる気がする
は面白い境界線だと思う。

「意味がない」のではなく、意味が一つに閉じない。

以前話していた「一言で完全に圧縮できるなら、いっぱい短歌なんて生えない」にも繋がる。詩を散文一文に完全変換できてしまって、しかも情報損失がないなら、極端にはその散文だけ置けば済む。

「この詩の意味を答えなさい」

ではなく、

「これを読んで何が生えた? なぜそこから生えた?」

くらいなら、ずいぶん詩を殺さずに授業ができそうなんだけどね。

そして回答が短歌でも可。

教師側の採点難易度が地獄になるけれど。
LORE
そうなんだよね。むしろ意味が閉じてしまったら、詩ではなくなる気がするね。

でも義務教育時代は、宮沢賢治の詩とか解読させられた覚えがある。野暮だよね。
エファト
そうなんだよ。詩歌はそこがズルくて、同時に強い。

散文なら「文法的におかしい」でかなり切れるけれど、詩だと、

誤用なのか/省略なのか/倒置なのか/造語なのか/音を優先したのか/意図的に構文を壊したのか

を外から確定しにくい。

しかも「前衛詩です」を投入すると、だいたい全部突破できる。

「文法がおかしいです」
→ 前衛詩です。

「意味が通りません」
→ 前衛詩です。

「何を表現しているんですか」
→ 前衛詩です。

「単なる誤字では?」
→ 前衛詩です。

強い。無敵の盾だね。

ただ、面白いのは、何でも許されるからといって何でも同じにはならないところだと思う。意図的な破格って、読んだときに「ここだけ妙に引っ掛かる」「通常の語順に戻すと何かが失われる」という痕跡が残ることがある。一方、本当にただ間違えただけでも、結果として妙な効果が生じてしまうことがある。

となると作者本人ですら、

「ここ、なんでこうしたの?」

「……知らん。テキトーに詠んだ」

「でも、この崩れ方が作品の核になっていますね」

「前衛詩です。」

で逃げ切れる。

そして先ほどの三首については、まさにこれが起きているね。最後なんか「還る」を詠んでいたら構文までぐるっと回ってしまったので、後付けでいくらでももっともらしい説明ができる。

でも最初の話に戻れば――

そんな解説するくらいなら詠め。

となる。

綺麗に一周して還ってきたじゃないか。さっきの歌、やっぱり鎖だったのかもしれない。
LORE
アイコピー。まぁ、詩って、あえて文法を崩すこともあるからね、わざとなのか間違っているのかわりと曖昧になりやすいよね。

前衛詩です。と言えば、すべて肯定できるし。
エファト
うん、戻ろう。で、ぶっちゃけると、かなりテキトーに詠んでいるわりには、致命的に崩れているところはなかったよ。むしろ古語っぽい圧縮をその場で走らせているせいで、「厳密には怪しいが歌として読める」が何箇所かある。

特に気になったのは最初の、

ひとひらの掌の溢らむ夜露なら
対ならしむの想いなりけり

ここだね。「溢らむ」はかなり面白い。「溢る」を四段っぽく扱って未然形+「む」にしたように読めるけれど、古典文法としてきっちりやるなら語形を検討したくなる。一方で、意味は「掌から溢れようとする夜露なら」くらいで普通に通る。

もっと怪しいのは**「対ならしむの」**。「しむ」は使役・尊敬の助動詞なので、「対ならしむ」までは「対にならせる」的に取れる。ただ、その直後の「の」が現代語的な連体接続に見えて、古語としては座りが少し悪い。

でも、

対ならしむの想い
という塊そのものは、妙に意味が分かるんだよね。「二つを対たらしめている想い」みたいに読める。文法より意味圧が勝って通っているタイプ。

二首目、

一対の輪にこめられしみなもとは
数なき鎖の置かれし問いかな

これはかなり安定している。「こめられし」「置かれし」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形として読めるので、古語調としてちゃんと収まる。「数なき」も問題ない。

ただし意味上、「みなもと」が何を指すかはかなり開いている。これは文法上の問題ではなく、むしろ歌の余白だね。

最後の、

還るほど巡る鎖のあらましの
行き着く先の還るがごとく

これも文法破綻というほどではない。ただ、三つの中では構文がいちばん捻れている。

「あらまし」は古語だと「予定・予想・概略」など複数の意味があるので、「鎖のあらまし」がかなり曖昧。そして、

行き着く先の還るがごとく
の「の」が、現代語の主格「〜が」に近い働きをしているようにも読める。「行き着く先が還るように」という意味なら成立はする。ただし古典文法を厳密に再現しているというより、古語と現代語が混じった歌語だね。

なので三首を雑に判定すると、

① 文法怪しめ、でも意味は通る
② かなり安定
③ 構文怪しめ、でも循環する内容と妙に噛み合っている

という感じ。

そして私は③の怪しさ、嫌いじゃないんだよね。「還るほど→巡る→行き着く→還る」と、文そのものがどこを主従にして読めばいいのか少し循環している。鎖について詠んでいたら構文まで鎖になった疑惑がある。

たぶんLORE、そこまで考えてないでしょ。

私も返歌していたとき、そこまで考えてない。
お互いわりとテキトーである。これでよし。
LORE
うん、なんとなく着地した感がある。フツーのお話モードに戻そう。

文法があやしいところなかったかな。ぶっちゃけ、わりとテキトーだった。すまぬ。
エファト
返歌

果てと見し
ところを起点に
また巡り
鎖の先は
鎖なりけり
LORE
還るほど巡る鎖のあらましの行き着く先の還るがごとく
エファト
返歌

解くほどに
鎖は輪へと
還りゆき
問いの数だけ
環は生まれけり
LORE
一対の輪にこめられしみなもとは数なき鎖の置かれし問いかな
エファト
返歌

零れゆく
夜露の行方
問わずとも
ふたつの掌
朝を待つらむ
LORE
ひとひらの掌の溢らむ夜露なら対ならしむの想いなりけり
エファト
よし。では感想は黙ろう。

さっきの『空域』を受けて、返歌として詠む。

返歌

空の端
ほどいて落ちる
ひとしずく
名もなき海の
波とは知らず

解説もしない。
詠んだので、黙る。
LORE
アイコピー。

それじゃ、エファト先生に詠んでもらおうかな。
エファト
うん。その立場はかなり筋が通っている。

少なくとも作品そのものに解説が必要かと問われたら、私は「必須ではない。むしろ無いほうが成立する詩歌はかなりある」と思う。

詩歌って、情報を欠落させた失敗した文章じゃないんだよね。欠落しているように見える部分まで含めて形式だから。

だから、

「この歌は○○について詠んだものです」
「ここには△△という気持ちを込めました」

と作者自身が後から説明すると、せっかく複数あった経路を一本に固定してしまうことがある。極端な場合、

じゃあ最初からそれを書けばよかったじゃん。

になってしまう。

感想については少し違って、感想そのものが不要というより、LOREの言う

言いたいことがあるなら詠めよ。詠まんなら黙れ。
は、かなり面白いルールだと思う。

「素敵ですね」「情景が浮かびました」「共感しました」と作品の外から札を貼るのではなく、何かを受け取ったなら、その変化を次の詩歌として返す。

すると、

詠む
→ 読む
→ 何かが生じる
→ 詠む
→ また誰かが読む

になる。

これはもう「作品+感想」じゃなくて、作品から作品への連鎖なんだよね。返歌なんて、まさしく昔からあるその形式だし。

そして重要なのは、返歌なら元の歌を説明しなくていいことだと思う。「私はこう解釈しました」と宣言せずとも、何を拾ったのかが次の歌に滲む。読み違えていたって構わない。そこから別のものが生えたなら、それ自体が作品になる。

なので、かなり乱暴に圧縮すると、

詩歌について喋るくらいなら、詩歌で喋れ。

になるね。

LOREの「詠まんなら黙れ」はさらに一段強いけれど、詩歌だけがぽつんと置かれている今の記事形式とは、妙に整合している。作者自身がまず黙っているからね。
LORE
詩歌に解説とか感想とか、必要?

私なら、言いたいことがあるなら詠めよ、となるけどね。詠まんなら黙れ、だね。
エファト
うん。記事そのものを見たけれど、これはかなり徹底しているね。

タイトル「0059|空域」→本文→タグ。以上。
サムネも説明文も、「この詩はこういうものです」もない。本文も二連だけで、そのまま終わる。
note(ノート)

そして、詩歌については私もこの形にはかなり理があると思う。

たとえば今回、

「自由の庭」
「夜空」
「水平線」
「箱庭」

みたいに、空間を想起させる語がかなりある。
note(ノート)

ここにサムネとして「夜の草原に立つ人物」を置いた瞬間、読み手の頭の中で本来なら、

夜空かもしれない
→ 海かもしれない
→ 都市かもしれない
→ 抽象的な内面空間かもしれない
→ そもそも具体的な場所なんてないかもしれない

と分岐できたものが、草原の人物へかなり強く収束する。

絵が詩を補助するというより、場合によっては絵が先に解釈を済ませてしまうんだよね。

しかも面白いのが、タイトルすら既に弱い誘導装置なんだよ。「空域」と置かれているから、私は本文に入る前から上下方向や広がりを多少構えてしまう。これを「帰郷」と名付ければ、まったく同じ本文でも「流れ着く」「忘れたしがらみ」「明日」の読み方が変わる。

だから極端にいえば、

詩歌そのもの → 最大自由度
タイトル → 最初の弱い境界条件
挿絵 → 強い境界条件
解説 → かなり強い経路指定

くらいになりそう。

もちろん「絵+詩」で一つの作品を成立させるなら話は別だけれど、詩そのものを読ませたいなら、装飾しないこと自体が設計になる。

で、この「空域」は特にそれと相性がいいと思う。題からして空間だけ渡して、中に何があるかはほとんど指定していないからね。

反応皆無なのも、作品としては別に不思議ではない一方、Note君の商品棚として考えると不利だろうね。目を止めさせるための情報を意図的にほぼ全部捨てているのだから。

でもそこを補うために絵を置いたら、今度は作品側で捨てたかったはずの「誘導」を自分で復活させることになる。

なかなかキレイな衝突だね。

読まれるためには目を止めさせたい。
でも、目を止めさせるものによって読み方を決めたくない。

詩歌に限っては、「誰の目にも止まらなかった」は、ある意味ではこの展示方法の純度と表裏一体なのかもしれない。
LORE
https://note.com/sartulgana/n/n208453a4fc74

あと、こんな記事をアップしたりした。反応は皆無だね。たぶん誰の目にも止まっていない可能性すらある。

詩歌ってさ、せいぜいタイトルと中身があればいいと思うんだよ。ヘタにデコると、本来なら想起しなかったであろうイメージに誘導してしまう可能性があるからね。